武田明「遍路と巡礼」より
寺々の物語  四国八十八ケ所の寺には、多くの物語が残っている。中には寺の縁起話もあれば霊験話 もある。どの話をとってみても、四国遍路のかもし出す雰囲気が、そこはかとなくただよってくるようである。ここにそのいくつかを紹介してみよう。

<機織る娘―第十番切幡寺>  昔々、弘法大師が吉野川をさかのぼって歩いていた時に、一軒の貧しい家で、一人の娘 がみすぼらしい身なりをして、機を織っていた。大師はそこに立ち寄って、その布をくれぬかといった。娘は、乞食坊主のような身なりの僧を見ていたが、気だてのよい娘なので、惜しげもなく布の一片を切って与えた。 大師はそれをもらうと立ち去っていったが、それからは毎日やってきて布を所望した。七日目にもまたやってきて、今日からは遠いところへ行くので、手甲と脚絆にするからいつもよりもよけいにくれないかといった。すると娘は惜しげもなく機にかけてある布を真ん中から切って大師に与えた。すると、大師は、 「お前は感心な娘じゃ。お前の望むことは何でも叶えてやろう」 といった。娘は、「私は衆生を救う観音さまになりたい」というと、大師はしばらく祈っていたが、そのうちに空のかなたからえもいわれぬ音楽 が聞え、あたりに紫の雲がたなびくとともに、不思議にも娘は即身成仏して観世音になってしまった。 今、このお寺には二躰の観世音があるが、南面しているのは弘法大師自作の観世音で、北面にいるのが女人成仏の観世音であるということである。
<おもかげの井戸―第十七番井戸寺>  井戸寺の詠歌は、おもかげをうつしてみれば井戸の水 むすべば胸のあかや落ちなん  となっているが、井戸寺には次のような縁起がある。昔、弘法大師がこのあたりを通りかかった。 長い旅の疲れでのどが乾いていた大師が、付近にいた老婆に水を恵んでくだされという と、老婆は、このあたりは水の不自由なところですがといいながらも、取っておきの清水を椀に入れて大師にすすめた。大師は喜んでそれを受けてから、錫杖で地面をこつこつと たたいた。すると不思議なことにそこから清らかな水が湧き出した。それからはその付近の人が住みついて村ができた。村の名を井戸村というのはそれからであるという。今も井戸寺の境内にはその井戸が残っていて、おもかげの井戸とよんでいる。なぜおもかげの井戸というのかといえば、大師がこの地を去る時にわが姿を井戸の水にうつして石を刻んだからであるという。この石には日を限って祈願を こめると何でも思いがかなうといって、日限大師(ひきりたいし)とよんでいるそうである。また一方において不気味な言い伝えがあって、この井戸にわが姿をうつして姿 がうつらなければ三年以内に死ぬともいわれている。
<肉髪つきの鉦の緒―第十九番立江寺>  立江寺には頭の肉がついたままの髪が鉦の緒にないあわされて保存されている。それに はうす気味の悪い話がある。なんでも享和年間のこと、石見の国浜田の桜井某の娘京というのが、大阪で芸妓をしていた時に、要助という男と契って郷里に帰って暮らしていたが、 やがて鍛冶屋長蔵と密通して、夫の要助を殺してしまった。二人は四国へ逃れようとして、郷里を出発して讃岐の丸亀へ渡り、一旦は自害をしようとしたが、それも果さず、四国遍 路に身をやつして遍路の旅に出た。途中、この立江寺まで来て、本尊を拝もうとすると、お京の黒髪が逆さまに立つと見るや、髪は鉦の緒に巻きついてしまった。 お京が悲鳴を上げるのを聞いて住職が駆け寄り罪の報いにちがいないと問いただした。そこでお京が前非を悔い白状すると、住職は本尊に向かって祈りをささげたので、頭の肉はそがれ黒髪のみが鉦の緒に残ったという。二人は罪を悔いあらためて、寺からほど遠からぬところに庵を結んで地蔵菩薩を念じて一生を送ったという。四国遍路が盛んになってくるにつれて、信仰の目的で旅をつづける者もあったが、中に は殺生盗賊などの罪をおかした者がまぎれこむことも多かった。そんな人の話も多いのだが、このような不義密通の男女が四国遍路をすることもあったのであろう。四国遍路の世相を物語るものとして紹介した。
<白鷺の橋―第十九番立江寺>  立江寺の前は小さい門前町となっているが、この門前町に入る前に白鷺橋という橋があ る。橋げたが八つで橋間が九つに分けられているので一名九つ橋というのだが、こんな話がある。昔、このあたりに黒部という名の暴れ者の武士がいた。ある時に、同じ仲間の侍四、五人といっしょにこの橋を渡ろうとすると、どこからともなく突然白鷺が飛んできた。黒部は馬に乗っていたのだが、白鷺を見ると馬は逆立ちとなって黒部は馬から落ちて死んでし まった。そのことがあってから心の善くない者がこの橋を渡ろうとすると必ず白鷺が出てくるので橋を渡れなくなるという。そこで白鷺橋というのだそうである。
<鏡の井戸―第二十二番平等寺>  昔、大師がこのあたりへ来た時に、空いっぱいに五色の雲がたなびいてどこからともな く音楽が聞えた。大師は驚いて五色の雲を見ると、中にありありと金剛界・胎蔵界の姿が現われた。大師はここは霊地にちがいな いと思って地を掘ると霊水が湧き出てきた。そこでその水で沐浴してから、薬師如来の像を彫った。それが平等寺の本尊であるという。 なお霊水の井戸を鏡の井戸とよんでいる。この井戸の水をいただいて病気の治った人は 傍に祀ってある地蔵によだれ掛けを供え、腫物の治った人は松笠を供えるのだという。
<後向きの薬師如来―第二十三番薬王寺>  薬王寺は阿波の国の最後の札所である。 昔、この寺が火災に会った時の話である。火の手があまりにも急であったので、寺僧たちは本尊を出すことができない。あれよあれよと眺めているうちに、本尊は光を放って約 六キロばかり離れた玉厨子山のあたりまで飛んでいってしまった。 それから何年かたって、本堂を新しく建て本尊の薬師如来を刻んで本堂の中に納めた。 そして、いよいよ落慶の法要を営もうとすると、不思議なことに、玉厨子山の方から以前の本尊が飛んできて、新しい本尊の後に立った。それ以来、その本尊を後向き薬師とよぶ ようになったと伝えられている。
<鯖大師の話―番外札所鯖瀬の大師堂>  第二十三番の薬王寺から第二十四番の土佐の最御崎寺に至る道中は、海沿いのさびしい ところで あるが、その途中に鯖瀬というところがある。 大師ははるばるとこのあたりまでめぐってきた。ひょっと見ると、一人の馬方が馬の背 にとれたばかりの鯖をいっぱい積んで通りかかった。 大師はその鯖を見て、それを一つくれぬかといった。すると馬方は大師のうすよごれた汚ならしい姿を見て、 「お前のような乞食坊主にはやるものか」  とののしった。すると、大師は、大坂や 八坂坂なか 鯖一つ 大師にくれ「で」 馬の腹病む  と歌を詠んだ。すると、不思議なことに、馬は急に腹痛を起して動けなくなってしまっ た。馬方は青くなったが、さては今まで乞食坊主と思っていたのは弘法大師かとあらためて詫びをいってから、鯖を一尾差し出した。すると 大師は、 大坂や 八坂坂なか 鯖一つ 大師にくれ「て」 馬の腹止む  と歌を詠んだ。馬はすぐに立ち上がって、ヒヒンといなないた。大師がその鯖を海中に投げ入れると、鯖は生きかえって、海底深く泳いでいってしまった。その時 の大師の姿を刻んだ石像が、今も大師堂の中には残っている。 さて、この話は、大師より二〜三〇〇年も前にこの地に来た行基の話だともいう。その時に行基は、松の木を植えたなどということも語られているそうである。
<食わずの芋と目洗いの池―第二十四番最御崎寺>  昔々、この寺の麓で一人の女が里芋を洗っていた。そこへ大師が通りかかって里芋を一 つくだされといった。女は振り向きもせずに、「こりゃ食えん芋よ」  といった。やがて女は家に帰って里芋を炊いたが、石のように固くてとても食べられな い。さてはあの旅僧は弘法大師であったのかと気がついたが、もうあとの祭りである。 この芋は山麓だけでなく寺のあたり一面に生えているが、今では大師の功徳によって難 病に効くといわれ、寺でも食わずの芋といって売っているようである。 室戸岬の海辺には七不思議といって多くの大師伝説があるが、目洗いの池の伝説もその 一つである。これは岩ばかりに囲まれた小さい池であるが、どこからも水の入ってくるところはないのに、いつも水をたたえている池で、どんな干天の折にも干上がることがない。 このあたりは室戸岬の中でも津呂(つろ)の崎とよばれていて、津呂の岬の目洗い池は 澄まず濁らず出ず入らず と歌われている。そしてこの池の水で洗えばどんな眼病でもよくなるという。
<楫取り地蔵−第二十五番津照寺>  津照寺の本尊は、地蔵菩薩であるが、ここには多くの奇瑞話がある。 昔、土佐の藩主である山内忠義公が、室戸岬の沖を航行していた。空がにわかにかき曇ったと思うと、急に「しら」が吹いてきた。「しら」とい うのは南西風で、このあたりの船乗りがもっとも恐れている暴風である。浪は荒れ狂い、今にも難破せんばかりとなった。乗組員は一大事とばかり室戸の港に船を漕ぎよせようとしたが何の手だてもない。ところがひょっと見ると船はな んとなく室戸の港に近づいていくではないか。一同が不思議に思って楫(かじ)取りの方を見ると、どこからやってきたのか、大きな僧が楫を取っている。そのうちに船は 無事室戸の港に入ったが、さきの僧は姿が見えなくなってしまった。 そこで僧の姿を探してこの寺まで来ると、本尊の地蔵菩薩が潮水でびしょぬれになって いた。さては楫を取られたのは本尊の地蔵菩薩であったかと、山内公はじめ一同はこの地蔵菩薩を尊ぶことしきりであった。 それ以来、この地蔵は船乗りの信仰が厚くなったということである。
<変化妖怪の話−第三十三番雪蹊寺>  昔々、住職もなく荒れはてて寂しい寺であったころの話である。一人の旅の僧がこの寺 のあたりまでやってきて、どこかに泊ろうとしたがどこにも宿るところがない。だれも住僧はいないようだが、この寺で泊ろうと寺のそばまで行くと、村人がやってきて、この寺 には妖怪変化が出るから、泊ってはあぶないという。  しかし、その僧はかまわずに寺の中に入って、本尊の前で座禅をしていた。夜が更けてくると、 どこかで女のさめざめと泣く声がしてきた。僧は静かにお祈りをしていると、しばらく泣 いていたのが、水も浮世をいとう心かな とつぶやいて、またさめざめと泣きくずれた。僧は気味が悪くなったが、一心不乱に祈 っているうちに夜はしらじらと明けてしまった。そこで、もう一夜泊って泣き声の正体を見きわめようと、翌晩も寺に泊まっていた。すると、またもやさめざめと泣く声がして、水も浮き世をいとうころかな  という。僧はそこで、これは歌の下の句だから上の句をつけてやろうと考えた末に、   墨染を洗えば波も衣着て 水も浮き世をいとうころかな  と歌を詠んだ。そのとたんに今まで泣いていた声ははたとやんでしまった。やがて夜は 明けた。村の人たちはあの化物寺に泊った旅僧は変化のために食い殺されているにちがいないと、 寺までやってくると、くだんの僧は元気な姿でお堂の中から出て来た。これはたいそう偉い方だということになって、寺の住職になってもらったという。その旅僧が、この寺の中 興の祖である月峰和尚じゃそうな・・・・。
<不動さまの御判−第三十六番青竜寺>  青竜寺の本尊は波切り不動明王だが、漁民や船の乗組員によって深く信仰されている。 このあたりは遠海漁業が盛んであるが、いよいよ遠くの海へ出かけていく時は船頭も乗組の若い者も、一同打ちそろって不動明王へ参詣に来る。そして船頭は、不動明王の御判を白衣に 押してもらう。やがて出航するが、その折にその白衣は肌身はなさず持っていくことになっている。 もしも何日も不漁がつづくと、船頭は御判を押した白衣を着て海中に飛びこみ、一心不 乱に祈る。すると、不思議と大漁になるという。また海が荒れた時も、御判を押した白衣を着て祈るが、その折も波がおさまるということである。なおこの不動明王は、竜の不動 さまともよばれているそうである。
<岩本寺の七不思議−第三十七番岩本寺>  岩本寺は伝説の多い寺だが、ここに七不思議とよぶ奇談がある。いずれも大師の功徳を 物語る話となっているが、その中のいくつかを紹介することにする。 昔、大師がこの寺へやってくると、子供が栗の大木に上って実をちぎっていた。 大師が一つ取ってくれぬかというと、子供は実を一つ差し出したので、大師は喜んで、何か望むことはないかと聞いた。すると、その子供はもう少し木の丈が小さくなって、そ のうえに一年に何度も実がなればよいと答えた。すると大師は、 うない児のとる栗三度実れかし 木をも小さくいがもささずに  と歌を詠んだ。それからというもの、その歌のように実は一年に三度なり、木の丈も小さく、いがも柔らかくなったという。今もその折の栗の木が境内には四、五本残っている ということである。  桜貝の話――この寺の近くの海辺は御室の浜といって風景のすぐれていることで知られていた。  昔、大師はこの浜辺までやってきて、あまりにも絶景なので庵(いおり)を結び 桜の苗木を植えた。やがて大師はこの地を去ったが、また何年かたってこの地を訪れた。そして花を見ようとすると、花はすでに散ってしまっていた。そこで大師は、来て見れば御室の桜散り失せぬ あわれ頼みし甲斐もあらじな  と歌を詠んだ。すると不思議なことに浜辺に転がっている貝がらが一夜のうちに桜の花びらになってしまった。今も桜の花びらそっくりの貝が浜辺には見られるという。  筆草(ふでぐさ)――岩本寺では、筆に似た草を信者に頒っているが、これも七不思議の一つに数えられている。 昔、大師がここへやってきて、折からの名月を見て、これは筆にも書くことができない と感嘆した。そして筆を投げたところに、筆に似た草が生えたというのである。そこで村人は、これを筆草とよび、かゆみ、痛みどめにはこの筆を水にしめらせてなでると、即座 にかゆみや痛みが止まるという。また、悪筆の人はこの筆草を持って帰ると能筆になるという。
<和泉式部の塔−第三十八番金剛福寺>  足摺岬の突端にある寺であるが、四国遍路の南のはてといったところにある。伝説も多 いが、境内の一隅には古めかしい五輪の塔がひっそりと建っている。 昔、和泉式部が各地を流浪のはてに足摺岬までやってきた。そして、その黒髪を埋めて ここに五輪の塔を建て、また遠い国々へ旅立っていったという。
<亀よび場とゆるぎ岩―第三十八番金剛福寺>  岬には奇岩怪石があって太平洋の荒波が打ち寄せているが、そうした怪石の中に不動岩 というのがある。大師は不動岩へ渡ろうとして大きい声で亀をよぶと、大きい海亀が大師のところまでやってきた。そこで、大師はその亀の背中に乗って不動岩のところまで行っ た。岩に上った大師は、傍の大石に不動明王の像を彫り、再び亀に乗って引き返した。今に不動岩というのは、不動明王の尊像が彫られているからであるという。 境内にある熱帯樹の林の中にゆるぎ岩という巨岩がある。この岩は大師が発見したのだといい、両手をかけてゆさぶると、ぐらりと揺れる。心の悪い人はいくら力をかけても揺 れないが、心の善なる人がゆさぶると難なく揺れるといっている。
<女神の上げ石―第四十三番明石寺>  明石寺は大昔は上げ石寺といったのだという。 昔、宇和の平野が一面の湖であったころの話であるが、山から下ってきた美しい女神が大石を頭にのせて運んでいた。ところが急に夜が明けたので驚いて、石を山の麓においた まま姿を消してしまった。その石を今も白王権現といって祀ってあるが、上げ石が訛ってあけいし(明石)となったのだという。
<大師野宿の十夜が橋−番外札所永徳寺>  第四十三番明石寺から四十四番大宝寺に行く途中に永徳寺がある。ここはやはり大師が 修行をしたところである。 大師は修行のためこのあたりまでもめぐってきたが、ここまで来た時にいつのまにか日 がとっぷりと暮れてしまった。家が四、五軒ばかりある小さい村にさしかかったので、ある家に立ち寄って今夜一晩泊めてくだされといった。すると、家の者は泊めることはでき ないという。もう一軒の家を訪ねてもお泊めすることはできぬという。 どこへ行っても宿を貸そうとする者はないので、大師はどこかで野宿をしようと思った。 小さい流れがあって土橋がかかっているので、この土橋の下で泊ろうと思い立った。河原へ下りて土橋の下でうずくまっていたが、折から晩秋のことで、寒い風が河の面から吹き 上げてくるので、寒くてたえられない。一夜の泊りも長く寒風にさらされてまるで十夜の思いがした。そこで大師は、行きなやむ浮世の人を渡さずば 一夜も十夜のここちこそすれ と歌を詠んだ。 この歌によって、この土橋は十夜が橋とよばれるようになり、今は十夜が橋永徳寺といって小堂が建てられ、大師修行の霊地ということになっている。 土橋はいつのまにかコンクリートの橋になっているが、河原の風情はそのままに残っている。大師の寝姿を刻んだ石像があって、真新しい布団がかけられている。この付近の村 人は、病気になるとこの布団を借りてきて病人に掛け、もし病気が治ればまた新しい布団を新調して石像に掛けておくのだという。
<掘り出した観世音―第四十四番大宝寺>  これはさまで古い話ではないが、この寺の境内には掘り出し観音堂というのがある。そ れにまつわる話である。 石田某という、たいそうな信者があった。大宝寺の観世音を信仰して、観世音の命日に は参ることを欠かすことがなかった。ある春の夜、夢うつつの中に観世音のお姿が現われていうのには、菅生山の森の中に、牛頭天王を祀ってある森があるが、その森の中に観世 音が埋まっているという。石田某ははっと眼がさめて、これは夢のお告げだとばかりに、人夫を雇って森の中を掘りはじめた。村の人は、そんなことがあるものかと冷笑していた が、次第に堀りすすむうちに、朽ち枯れてしまった檜の切株のもとから、三寸三分の観世音の像が七躰も出てきた。それは黄金の光まばゆいものであった。それを祀ったのが掘り 出し観世堂で、厄除け観音として知られているということである。
<衛門三郎の屋敷跡―番外札所得盛寺>  強欲な衛門三郎の話は前述したが、第四十七番八坂寺の近くに得盛寺がある。ここは三 郎の屋敷跡が寺になったのだといい、次から次へと死んだ三郎の八人の子を祀ってある。 いずれも童形の八人の子の石像が、狭い堂の中に並んで祀られている。この付近には八 人の子を葬った八塚というのが田の中に点々と残っている。
<犬神除け大師―第四十八番西林寺>  四国地方には、犬神やトンビョウガミ(蛇神)、狸神などの「つき」物 の信仰が残っているところが多い。人に害を与える神だが、その中でも犬神はことに四国地方の山村には多いという。 犬神つきの家というのが昔はあったもので、この家と争えば犬神に追いかけられるとい って、病難に会ったり不幸な目にあうこともしばしばであった。そこで犬神を退散させるためには、祈祷師に拝んでもらうことが多かった。 ところでこの寺の本堂の縁には、犬神除けの大師をお祀りしてあるという。なんでも山口県の石屋の人が犬神でなやむ人を助けるために、大師の石像を彫ってお祀りしていたところが、大師が四十八番に帰りたいといったのだそうである。そこでこの大師像をこの寺まで送りとどけてきたのだという。これも新しい話であるが、四国ではまだこんな信仰が残っているのだということを書き記したのである。
<空也上人の像―第四十九番浄土寺>  松山市の近くにある浄土寺には、空也上人の像が本堂の隅に祀られている。空也上人は 諸国遍歴の途中、ここまでやってきて付近の村人に念仏をすすめた。上人は三年間とどまって、村人を念仏によって教化しようとしたのである。 三年目に上人が去ろうとすると、名残を惜しんだ村人が今しばらくとどまってほしいと 懇願した。そこで上人が、村人のために自分の像を彫って与えたのがこれである、という伝説になっている。 等身大の寄木造りの木像は、右手に橦木(しゆもく)を持ち左手には杖を持って いるが、首から下に鉦をつるしていかにも衆生に念仏を説くかのような風貌をしている。四国札所の寺院の中にはこうした彫刻も残っているのである。
<真野の長者の物語―第五十二番太山寺>  松山の市街地からあまり遠くない太山寺の本堂は国の重要文化財になっているが、これ は真野の長者が建立したものだという。長者については次のような昔話が語られている。 この話は日本昔話のいわゆる炭焼長者という形式の話である。 昔、奈良の都に玉津姫という娘がいた。久我大臣の姫君であったが、顔にも体にも黒い痣(あざ)があったので、どこへも嫁入りすることができないでいた。三輪(みわ)の明神に祈ると、お前の夫になる人は豊後の国の玉田の山里に住む炭焼小五郎をおいてほかにはないという。そこで姫はわざわざ九州は豊後の国の山里に住む炭焼小五郎 を訪ねていった。ところが小五郎は、自分はその日の生計にも困っている者だからとてもお前を妻にすることはできぬという。 姫はそれではこれを持っていってお米なりと求めてきてくださいと持ってきていた小判 を小五郎に渡した。小五郎はその小判を持って山を下っていくと、途中の谷川で二羽のおしどりが遊んでいた。小五郎はその小判をおしどりにぶつけると、小判は沈み、おしどりは逃げて しまった。 小五郎は何にも求めずに手ぶらで帰ってきたので、姫があの小判はどうなされたと聞くと、あれはおしどりにぶつけてしまったという。姫はあれは小判といってこの世の宝じゃ というと、小五郎はあんなものは炭焼窯のあたり一面にあるというので、姫は驚いて小五郎といっしょに炭焼窯のところまで行くとほんとうに小判のようにぴかぴかと輝くものが いくらもある。姫は驚いたが、そこの渕で顔を洗うと黒い痣も忽ちのうちに消えてしまった。そして黄金を掘り出して二人は大金持ちになった。やがて大勢の従者を集めて田畑を開 き、遂には唐の国とも交易するほどの大長者になった。二人の間には娘が生まれたが、般若姫(はんにやひめ)と名づけた。姫は非常な美人であったので、欽明天皇の皇子橘の豊日の皇子に求められて結婚した。般若姫は姫君を産んだが、若死にしてしまう。 用明天皇の二年、真野長者は津の国の難波に向って航行中に暴風雨に会った。それは船が伊予の国の高浜の沖にさしかかった時であり、帆柱は折れ、船は今にも難波しようとし た。長者は一心に観世音を祈ると、不思議なことに遥かの滝雲山(りゆううんざん)の頂きから五色の光明がきらきらと輝いて海上を照らした。そこで船を漕ぎ寄せて高浜の 港に着いた。それから光明をたよりに山へ登っていくと、小さいお堂があって十一面観世音が安置されていた。長者はこの観世音の助けで命が助かったことを知って、観世音のた めにお堂を建てた。それが太山寺の本堂であるという。
<哀れな犬塚の話―第五十八番仙遊寺>  第五十七番栄福寺と五十八番の仙遊寺の間に犬塚池という池があって、ここに哀れな犬の物 語が伝えられている。 昔、栄福寺と仙遊寺の住職を一人で兼務している時期があった。 一匹の犬を飼ってい たが、たいそう利巧な犬で仙遊寺に用事があればそこの鐘を鳴らすと仙遊寺に走ってくる。栄福寺に用事ができれば栄福寺に走ってくるという具合で、たいそうかわいがって飼って いた。両方の寺の間には池があって、犬はその池の堤を走っていくのであった。 何年かすぎたある日のこと、どうしたわけか、両方の寺の鐘がいっせいに鳴り出した。 犬は途方に暮れて、あっちへ走ったりこっちへ走ったりしているうちに、とうとう狂ったようになり、池の中へ身を投げてしまった。その池の名を犬塚池とよび、犬の塚もあった のだが塚の方は今ではなくなってしまったという。
<子安大師の話―第六十一番香園寺>  この寺は子安大師の名で通っているが、それにはこんな話がある。 昔、弘法大師が四国巡行の時に、この山の麓まで来ると、一人の女が難産で身もだえして苦しんでいた。大師がそこで安産の秘法を祈願すると、忽ちのうちに玉のような男児を 安産したという。それ以来、この寺は安産祈願の寺となり、また女人成仏の寺となって、四国の各地の子安講ではこの寺に参詣することが多いという。
<毘沙門天の寺―第六十三番吉祥寺>  毘沙門天を本尊とする寺は、四国八十八ケ所の寺の中ではここだけだという。農家の信 仰が厚く米持ち大権現などともよばれ、近在の農家では旧正月の三日には、どの家からもここへ餅を搗いて持ってくるという。 またこのあたりでは、百足(むかで)は毘沙門天のお使いだというので、殺さな いことになっている。ある家の人が、百足を殺したところ罰があたったのか、病気になったなどという話も残っているそうである。
<いざり松―番外札所延命寺>  土居のいざり松の名で名高いこの寺は番外札所である。 昔、弘法大師がこの地方に来た時に、一本の松の根元で一人の男が足が立たぬのか、いざり歩いて苦しんでいた。大師はあまりの哀れさに紙に南無阿弥陀仏の六文字の名号を書 いて祈祷をしてから、水に浮べて飲ませると、その男の足は忽ち立って歩くことができるようになった。男は大師のお伴をしていくことになったが、やがて得度して法忍の名をも らい、後にはこのいざり松の傍に草庵を結んだという。今は何代目かの松がいざり松の名で残っている。 また、ここには千枚どおしというのがあって、これは大師が南無阿弥陀仏の名号を一枚 の紙に書いたのが、何千枚もの紙に今もそのままうつって残っているのだと言う。この紙は寺から領けているが、この紙を水に浮べて飲むとどんな難病でも治るのだという。
<椿堂の話―番外札所常福寺>  昔、弘法大師は土居のいざり松から雲辺寺へ行く途中、ここで休憩した。その折にたず さえていた椿の杖を地面にさしたのが成長して大木となった。後の世の人が傍にお堂を建てたのが起りだという。この椿の葉を水に浮かべてその水を飲むと、どんな病気でも治る ということである。  
<八百屋お七の話―第六十七番小松尾寺>  ここにはまた浮世くさい話が残っている。放火の罪で処刑になった八百屋お七の恋人吉三はお七の菩提をとむらうために、どこかの寺の仁王の首を持って、四国遍路の旅に出た。そして、この寺まで来て、仁王の首を置き、修理して祀ったのが当寺の仁王尊であるとい う。まったく筋道の通らぬ話で、こんな話をだれが運んできたのか、まただれが創作したのか判断に苦しむのだが、現実に村ではこんな話をする人もあるのである。 哀れな話も多いのだが、こうした話を語りながらのんびりと歩いている四国遍路もいたのである。
<大師一夜建立の本堂―第七十番本山寺>  弘法大師はこの寺の本堂を建立するために、讃岐の山々に用材を求めたが得ることがで きなかった。そこで阿波の井内谷の山にまで出かけ、用材を伐り倒した。今も井内谷には多比大師(たびたいし)というのがあるが、それはその折に大師が滞在した跡であ るという。それから阿波と讃岐との峠を越えて讃岐の国へ下りて来て、本山の近くまで来た時に一本の柱を落した。それに大師が地蔵菩薩を彫りつけたのが、今に残る枯木の地蔵であると いう。大師は用材がととのうと、この本堂を一夜で建立したが、この建物は今では重要文化財となっている。
<太刀受けの阿弥陀如来―第七十番本山寺>  戦国時代のことである。土佐の長曽我部元親が讃岐を平定しようとして阿波から乱入し てきた。そして本山寺に来てここを本陣にしようとした。当時の住職はここは殺生禁断のところだから立ち入っては困るといって、長曽我部軍のいうことを聞かないでいた。する と兵士たちはやにわに住職を一刀のもとに斬り殺してしまった。こうして中へ入ろうとすると、なんと斬り殺したと思った住職が本堂の縁側に立って兵の乱入をこばんでいるでは ないか。これは不思議だと思って兵士たちがよく見ると、赤い血のあとが点々として本堂の内陣の中まで入っている。なおも跡をたどると、厨子の中にまで血のあとはつづいてい る。厨子の扉が少し開いているので中をのぞいてみると、脇仏の阿弥陀如来の右のひじのところから血が流れていた。さては阿弥陀如来は身代りになったのかと、長曽我部の軍は 早々に退いていったという。それから後、この阿陀如来は身代りの阿弥陀如来というようになった。
 西行伝説
<西行法師と芋畑―番外札所七仏寺>  番外札所となっている七仏寺という小堂の前には西行法師の歌が刻まれているが、それ についてはこのような話がある。 西行はこの土地までやってきたのだが、八月の十五夜に月があまり美しいので、芋畑へ 出て、月を眺めていた。ところが付近の百姓がこれはてっきり芋盗人にちがいないと思って、わが芋畑で何をするぞととがめると、西行は今夜は芋明月(いもめいげつ)の 晩だから芋を一つくだされといった。すると百姓は歌を一つ詠んでくだされば差し上げようという。西行は、   月見よと芋の子供の寝入りしを 起しに来たか 何か苦しき  という歌を詠んだ。何かわけのわからぬ歌だが、百姓は喜んで、西行に芋を与えたという。この歌が七仏寺の前に刻まれて建っているのである。
<昼寝石と笠掛桜―第七十二番曼荼羅寺>  この寺にも西行の伝説があって、昼寝石というのが本堂の前にあるが、西行が昼寝をし ていた跡だという。笠掛桜は、昼寝石から少し離れたところにあったが、今は枯れはてて塚のみが残っている。 昔、西行はこのあたりまで同行の人と来た。ところが同行の人は桜の根元に笠を置き忘 れたまま別れて行ってしまった。それからしばらくして西行は再びこの寺に来て、 笠はあり その身は如何になりぬらん あわれはかなき天が下かな という歌を詠んだという。その笠掛桜は枯れているが、ほど遠からぬところに不老の松という松の名木がある。これは弘法大師お手植えの松だといい、その形が笠をかぶったようなので笠松とよばれている。
<弘法大師の遊び塚―番外札所仙遊が原地蔵堂>  大師が真魚とよばれていた幼少のころ遊んだという土地が善通寺市内に 残っている。そこは大師の誕生地からはあまり遠くないところで、大師は大切に飼っている犬とここでいっしょに遊んでいたそうな。ところが犬が病死してしまったので、大師は 犬の塚を作った。後世の人がそこに地蔵菩薩を祀って、今も仙遊ケ原地蔵尊として番外札所となっている。
<乳母を射た和気道隆公―第七十七番道隆寺>  道隆寺のあたりは一面の桑畑であったので、この寺の山号を桑多山とよんでいる。 道隆公の家は、このあたり切っての豪族であった。ある日のこと、日が暮れてから桑の大木の上で、あやしい光を放つものがあった。いぶかしく思った道隆が弓に矢をつがえて 射ると、女の悲鳴の声を聞いた。道隆が驚いて駆けていくと、乳母に矢がささって倒れていた。道隆は乳母の死を傷み、桑の大木を切り薬師如来の像を刻んでお堂に安置した。と ころが不思議なことに埋葬した乳母がよみがえった。どうしたのか矢がささっていたはずなのに何の傷あともない。やがてこのことが近隣の人々に知れわたり、このお堂に祀った 薬師如来の功徳だろうということになって、参詣者の絶えることがなくなった。これが道隆寺の起りであるという。寺名は道隆の二字を取ったものだそうな。
<八十八の清水―第七十九番天皇寺>  天皇寺は俗に「てんのう」ともよばれている。境内に接して山あい から八十八の水が流れている。 昔、日本武尊の御子「さるれ」王が勅命によって南海を荒している悪 魚を退治することになった。悪魚が讃岐の国の槌の門(つちのと)の瀬戸にいるのを知った「さるれ」王は兵船に乗って退治しようとしたが、大 魚のために船はくつがえって、八八人の兵士もろとものまれてしまった。しかし元気な兵士たちの幾人かは腹を突きやぶって外へ出たので、大魚は今にも死にそうになって浜辺へ まで来て、のたうちまわっていた。それを「さるれ」王が斬り殺して、腹中にのまれていた兵士のことごとくを救い出してしまった。しかし、悪魚の毒気に打た れて、兵士たちは息も絶え絶えであった。 この時、どこからともなく一人の童子が、清らかな水を持って現われた。そして兵士らにうちそそぐと、兵士のことごとくは生き返ったという。その童子は、そこから程近い横 潮明神のおつかいで、八八人の兵士の命を救った清水が、今に残る八十八の清水だという。「さるれ」王は讃岐の国にとどまって国の主となった。この「 さるれ」王の話は、日本武尊の話として語られている例も多いようである。 八十八の清水にはもう一つの伝説がある。その話の筋はこうである。崇徳上皇は讃岐の国に流されたが、この八十八の清水の近くの木の丸殿(このまるどの)という御殿にお住まいになっておられた。上皇は何年か後の八月のある 暑い日にお亡くなりになったので、都から検死の役人の来る間、この八十八の冷水につけておいたという。上皇の御亡骸はやがて白峰山上に葬られたが、葬送の列が進もうとする と急に雷鳴がとどろき大雨が降ってきた。そこで御柩(ひつぎ)を付近の大石の上においたところ、その柩の下から血がにじみ出たという。そこは今も血の宮 といってお祀りしている。また白峰山上の稚児が嶽のあたりで荼毘に付されたが、御遺骸から上る煙がいつまでもたなびいて、流れることがなかったので、里人はそこに煙の宮を祀ったのだという。
<国分寺の鐘―第八十番国分寺>  昔から国分寺の鐘は名鐘として知られている。これはこの鐘についての物語である。  寺から四里ばかり行くと、安原というところに百々が渕という恐ろしい渕があって、そこには昔から大蛇がすんでいた。里へ出てきては里の人々をおびやかすので、だれかに退治してもらうことになった。そのころ別子八郎という弓の名人があった。八郎はわれこそ退治する者なりと百々が渕まで 行って待っていた。しばらくすると大蛇が頭に鐘をかぶって出てきた。八郎は矢を放ったが、なかなかうまくあたらない。千本の矢を放つとようやく命中し、大蛇は鐘を投げすてて遠く香西の沖に逃げてしまった。それから何日 となく土砂降りの雨が降ったが、からりと晴れた日に大蛇は香西の沖で死んでいた。千本の矢を放ってうまく射とめることができたのは国分寺の先手観世音のおかげであると、八 郎はその大蛇のかぶっていた鐘を国分寺に寄進したが、近郷近在の者はだれもがこの鐘のよい音色に魅せられてしまった。やがてこのことが高松の藩主の耳に入った。そこで高松の城下へ持ってきて時の鐘とした。ところが高松へ持っ てくると、この鐘は、 「国分寺へいのう、国分寺へいのう」  と鳴る。そこで再び鐘は国分寺へもどされたが、これが今の国分寺の鐘であるという。
<恋だよりの玉章(たまずさ)の木―第八十一番白峰寺>  崇徳上皇をお祀りしてある頓証寺殿(とんしようじでん)の門の傍に欅( けやき)の大木があって古くから玉章の木とよばれている。上皇がこのあたりでほととぎすの啼声をお聞きになって、  啼けばきく聞けば都の恋しきに この里すぎよ山ほととぎす  の歌をお詠みになって、都のことを偲ばれたので、ほととぎすは上皇の御心中をお察しして、この木の葉を巻いて、その中にくちばしをさし入れて声が出ないようにして、この里を飛んでいった。それからはこの欅の大木からは巻き葉が落ちるようになったという。その後だれがいい出したのか、この巻き葉を拾えば、思う人の便りが得られるというこ とになって、若い男女がこの巻き葉を拾っていくそうである。
<御殿が鳴動した頓証寺殿―第八十一番白峰寺>  頓証寺殿は崇徳上皇の御廟所である。白峰寺の本堂から離れた一画にあるが、左近の桜、 右近の橘を配した御殿で、左の方には西行の腰掛石と小さい西行の石像がある。西行は御存命中の崇徳上皇をお知り申し上げていたので、四国行脚の折にはこの廟に詣でた。もっとも白峰寺は山岳信仰の山であったので来たもののようである。 西行は一夜中、御経を読誦して上皇の霊をお慰め申したが、にわかに御殿が振動して、  松山や浪に流れてこし船の やがてむなしくなりにけるかな の御製があった。西行はたちどころに、  よしや君昔の玉の床とてもかからん後は何にかはせむ と御返歌申し上げた。すると御殿の鳴動はようやくにして止まったという。
<牛鬼の像―第八十二番根香寺>  根香寺は白峰寺と同じように五色台山上の寺であるが、この寺の境内に牛鬼の像がある。  牛鬼は牛の顔をした怪物で、天正年間にこの山の麓のあたりに出てきて、里人に危害を与えていた。讃岐の国守はだれかに退治をさせようと思ったが。だれも退治する者がない。 ここから五里ばかり離れた安原村に山田蔵人高清(くらんどたかきよ)という弓の名人がいるのを知ってこの者に退治させることにした。高清は命を受けると、山中を探し まわったが、なかなか牛鬼を見つけることはできない。そこで千手観世音に祈って参籠したが、ようやく満願の日にこの山の千尋が嶽の下に怪獣がうずくまっているのを知った。  高清は弓に矢をつがえて牛鬼を射た。手ごたえはあったのだが、牛鬼は夜の闇にまぎれてどこかへ逃げてしまった。翌朝になってから射た場所へ行ってみると、赤い血がぼたぼ たと落ちている。 その血を伝っていくと山中の深い渕の中に入って牛鬼は死んでいた。高清はその首を切り取って根香寺へ納めた。それからというもの、牛鬼が村に出てくることもなくなったので 村人はたいそう喜んだ。今の牛鬼の角というものが寺に保存されているという。
<飛鉢の行―第八十四番屋島寺>  屋島寺は瀬戸内海を見下す山上にあるが、この寺は鑑真和上(がんじんわじよう) の弟子空鉢上人(くうはちしようにん)の開基した寺であるという。 開基の始めは信者たちの寄進も少なく、非常に困窮していた。そこで、空鉢上人が山の 上から沖を通る船を目がけて三升三合入りの鉄鉢を投げると、鉄鉢はうまく船の中に落ちることになっていた。船頭がすかさず三升三合の米を入れると、鉄鉢は再びもとのとおり 寺の中に落ちた。このようにして空鉢上人は一山の僧侶を養っていた。ところがある時、船頭が鉄鉢の中に米の代わりに魚を入れた。すると鉢は船もろとも海の中へ沈んでしまっ たという。 屋島にはまた獅子の霊巌という奇岩がある。ここで弘法大師が一日のうちに本尊を彫刻しようとしたが、本尊がまだでき上がらぬうちに、日が西の方へ沈もうとした。そこで大師はこの岩上に立って夕日をよびもどし、ようやく完成することができたのだという。夕日を招き返す物語は各地に多く、たいていの場合にはその罰を受けるのだが、この話だけは特別のものである。
<血の池―第八十四番屋島寺>  昔、源平合戦の折に屋島の山麓は合戦のちまたとなった。平氏は敗れて逃れたが、源氏 の武士が血刀を洗ったという池が屋島寺の境内に残っている。またこの寺には蓑山大明神(みのやまだいみようじん)という狸が古くから住んでいて、和尚の代がかわるごとに新し い和尚のために、源平合戦の様子をまのあたりに見るようにして、見せるのだという。 
<八つの焼き栗―第八十五番八栗寺>  昔、弘法大師がこの寺へ来た。当時の寺名は八国寺といっていた。大師はちょうど唐の 国へ渡る前であった。八つの焼き栗の実を植えて、もしわが修行が実を結べばこの栗芽を出し給えと祈って、唐へ出かけていった。何年かたって唐から帰ってくると、八つの焼き 栗はすべて芽を吹いていた。それからこの寺を八栗寺とよぶようになったという。
<八栗寺の観音講―第八十五番八栗寺>  この話は現在は八栗寺ではほとんど行なわれていないが、澄禅の『四国遍路日記』によ れば、・・・昔、義経が阿波の国へ上陸して屋島を目ざす途中、二月一八日牟礼高松(むれたかまつ)に来て、八栗寺へ押しかけると、この寺では僧侶が集まって観音講をして いた。ときの声が聞えたので、観音講に集っていた者はみんな後の山へ逃げたが、源氏の雑兵たちは寺へおし入って、観音講のためにつくっておいた釜二つに入っていた飯をよい 兵糧があるといって配分して食べてしまった。そうして弁慶は鎧を着たままたわむれにお経を上げたので、皆の者がお互いに笑いあった、とある。澄禅はこの話を八栗寺の住職から聞いて書き記したのであるが、もともとこの話は阿波 の国の三番金泉寺の話としても伝わり、また阿波の大山寺(おおやまでら)の話としても今に伝承されている。元来は『平家物語』に出ているのであるが、やはり説経師とかそのほかの説話運搬者の手によって、この八栗寺にももたらされ たものであろう。
<海女の玉取り―第八十六番志度寺>  志度寺には多くの縁起があって、かつてはこの寺に絵解きの僧や説話を運搬する一種の 宗教人がいたことを暗示している。「えんま」の庁からさしもどされた話の数々、当願暮当の話については既に述べたが、なんといっても著名なのは海女の玉取 りの話である。藤原不比等のために海女は志度の海に入って竜神より宝の珠をうばい返してきた。そして海女の産んだ子は藤原房前になるというのだが、おそらくは古くからこの あたりに住んでいた海女の伝承していた物語が次第に脚色されてこんな説話にまで成長したのであろう。瀬戸内海近辺の漁民たちは自らの祖先を源氏といい、あるいは平家といい、 またその出自を貴い家柄の者とする説話があって、やはりそうした一連の説話として、たまたま身分貴い藤原氏をこの中に加えたのであろうか。  志度寺の境内は海に面しているが、今はもはやこのあたりに海女は住んではいない。た だ海女の物語と古色蒼然たる海女の墓を境内の一角に残すのみである。
<猫檀家(ねこだんか)の昔話―第八十八番大窪寺>  大窪寺は納めの寺で山深いあたりにある。この寺には猫檀家の昔話が残っている。昔々、この寺がたいそう衰えていた時のことである。和尚が一匹の猫を飼っていた。何年も飼っているうちに和尚にたいへんよく馴れて、和尚もまたかわいがっていた。ある時に和尚がお勤めから帰ってくると、本堂のあたりで騒々しい音がした。そっと見ると、たくさんの猫が本堂の前で踊っていた。中に親方と思われる猫が見覚えのある手ぬぐいで頬 かぶりをして踊っていた。しかし和尚が近寄ると、猫たちはみんな散り散りになって逃げてしまった。和尚はこれは不思議なことだと思ったがそのままにしておいた。 ところがある日のこと、ひょっと気がついてみると、寺の猫が箒を尻尾に巻きつけて座敷を掃除している。和尚はそこで、寺の猫もとうとう猫又になったのかと気がついた。そ して以前に本堂で頬かぶりをしていたあの手ぬぐいは寺のものだと初めて知った。これはいつまでも寺に置くことはできない。今のうちに追い出してやろうと、オイダシメシ(小豆飯)を炊いて重箱に入れ、猫をよんで食べさせようとした。すると、猫は小豆飯を食べてどこへともなく去っていってしまった。その晩、和尚の夢の中に猫が現われた。そして、 「もう二、三日するとここから北の富田村の物持ちの家で葬式が出る。その時は雨具の用意をして出かけなさい。葬式の途中に雨が降って、私が天から下りてきて棺桶を取るからどうぞ祈ってください。ほかの坊さんがいくら祈っても棺桶はもとにもどらないが、和尚さんが祈ると元のとおりにもどすから」という。 和尚はこれは妙な夢だとは思っていたが、なんとなく気がかりになったので、二、三日してから富田村のあたりまで行ってみた。ところが夢の中で猫がいったように、物持ちの家で葬式が出ていた。和尚はよばれたわけでもないので傍で見ていると、いよいよ出棺になり、行列がぞろ ぞろと出てきた。するとにわかに空がかき雲って、大粒の雨がばらばらと降ってきた。雷鳴がとどろき、空から火車(かしや)が下りてきて、棺をつり上げようとした。つき従っていた大勢の和尚たちが一生懸命に祈ろうとしたが、どうにもならない。ただうろたえるばかりであった。それを見て大窪寺の和尚は物持ちの旦那の前に行き、私が祈るからといって、祈りに祈ると、一旦宙につられていた棺桶はもとのとおりに輿の中へおさまって、空もうそのように晴れてしまった。 物持ちの旦那はたいそう喜んで、その一族の者はもとより近在の者すべてが大窪寺の檀家になった。そして本堂の前に石の大香炉を寄進したそうな。これはいわゆる猫報恩の猫檀家という昔話であるが、大窪寺のこととして伝承されているのである。

寺々には縁起話をはじめとして多くの物語が伝わっている。その中には四国遍路の起源に関係があるものもあれば、その地方で行なわれている民間説話が合わさったもの、大師 の巡行などいろいろとあるが、いずれもやはり四国遍路を考察するに欠かせないものばかりである。
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